LOGIN「けれど、あなたにしか預けられません」
死んだ親友の言葉は、どうしてこんなにも勝手なのだろう。 セレスティアは、公証人の手にある遺言状を見つめた。 紙は薄い。 封蝋も、そこに押された印章も、特別なものではない。 それなのに、その一枚が急に重く見えた。 人ひとりの人生どころか、幼い子供の行き先まで決める重さを持っている。 「読み間違いではないのか」 先に口を開いたのはリュシアンだった。 声こそ抑えているが、その低さに怒りが滲んでいた。 公証人オスカーは、慣れた様子で遺言状を確かめ直す。 「間違いございません。故人の自筆であり、証人二名の署名もあります。作成日は三か月前です」 「三か月前……」 セレスティアは呟いた。 事故で亡くなる三か月も前に、ミレイユは自分の死後を考えていたことになる。 病を患っていたとは聞いていない。 少なくとも、葬儀では事故死だと説明されていた。 「妹は、自分が死ぬと知っていたのか」 リュシアンが尋ねる。 「その点については、私からは何とも申し上げられません。遺言状を作成された理由を尋ねた際、夫人は『万一に備えて』とだけ」 「万一に備えて、六年も会っていない女へ娘を預ける遺言を書くのか」 「閣下」 オスカーは少しだけ声を硬くした。 「私は遺言を作成した公証人ではなく、保管と執行を委任された者です。故人の真意までは存じません」 「なら、誰が作成した」 「王都西区の公証人、エドガー・ハインズです。ただし現在、療養のため王都を離れております」 出来すぎている。 セレスティアはそう思った。 事情を詳しく聞ける人間は、その場にいない。 死者は説明しない。 残された者だけが、断片を拾い集めて勝手に意味をつける。 「続きがあるのでしょう」 セレスティアは言った。 「ございます」 「読んでください」 「待て」 リュシアンが遮る。 「なぜだ」 「ここで読むおつもりですか」 セレスティアは周囲へ目を向けた。 葬儀の参列者たちは、遠巻きにこちらを窺っている。 聞こえないふりをしているが、誰も帰ろうとしない。 あと半刻もすれば、ミレイユの遺言にセレスティアの名があったという噂が王都中へ広がるだろう。 「別室をご用意しております」 オスカーが言った。 「関係者のみで、正式な開封と確認を行います。ノエル様にも立ち会っていただく必要があります」 「子供に聞かせる内容なのか」 「故人の指定です」 リュシアンの顎が僅かに動いた。 納得していない顔だ。 だが彼は、ノエルの前で公証人と怒鳴り合うことはしなかった。 先ほどから黙っている少女へ目を向ける。 「ノエル。少し休んでもいい」 「大丈夫です」 すぐに返事があった。 五歳の子供が出す声にしては、妙にしっかりしていた。 「疲れているだろう」 「疲れていません」 「朝から何も食べていないと聞いた」 「お腹は空いていません」 「眠くはないのか」 「眠くありません」 リュシアンが困ったように口を閉ざす。 セレスティアは少女を見た。 大丈夫。 疲れていない。 空腹ではない。 眠くない。 大人が望みそうな答えを、迷いなく選んでいる。 子供らしくないのではない。 子供だからこそ覚えたのだ。 困らせなければ、捨てられない。 そう信じている子供の答え方だった。 「ノエル」 セレスティアが呼ぶと、少女の視線がすぐにこちらへ向く。 「本当にお腹が空いていないの?」 「はい」 「では、今ここへ焼きたての蜂蜜菓子が運ばれてきても、食べたくない?」 ノエルは僅かに唇を開いた。 ほんの一瞬、目が揺れた。 だが、すぐに首を振る。 「いりません」 「そう」 セレスティアはそれ以上追及しなかった。 ただ、その返事だけは覚えておこうと思った。 「別室へ参りましょう」 オスカーに促され、一行は礼拝堂を出た。 通されたのは、ヴァルクール公爵家の応接間だった。 葬儀のため、普段飾られているらしい絵画には黒布がかけられている。 窓辺の花瓶にも白い花。 どこもかしこも白だ。 ミレイユが嫌いだった色。 セレスティアは長椅子へ座る前に、ノエルの様子を見た。 少女は迷わずリュシアンの隣に座った。 伯父を慕っているからではない。 おそらく、自分が座るべき場所を考えたのだ。 血縁者のそば。 来客であるセレスティアからは少し離れたところ。 誰にも教えられていないのなら、なおさら痛々しかった。 「正式な開封に先立ち、確認いたします」 オスカーは卓上へ書類を並べた。 「故ミレイユ・レイモンド夫人の法定相続人は、夫アルベルト・レイモンド卿、及び一人娘ノエル・レイモンド嬢です。ただし、アルベルト卿は現在、王国財務監査院より公金横領の疑いをかけられ、所在不明となっております」 セレスティアは眉を寄せた。 「横領?」 「ご存じなかったのですか」 リュシアンが冷たく言う。 「六年間、王都の噂を避けて暮らしておりましたので」 「妹の夫が失踪したことも?」 「知りませんでした」 「君は本当に何も知らないのだな」 「知ろうとしませんでしたから」 あえて正直に答えると、リュシアンの表情が険しくなる。 「それを誇るな」 「誇っておりません」 「同じだ。何も知らないことを盾にしている」 「では、閣下はすべてご存じだったのですか」 「何?」 「妹君の夫に横領の疑いがあることも、妹君が遺言状を用意していたことも、夜ごと何かに怯えていたことも。すべてご存じだったうえで、今日まで何もなさらなかったのですか」 リュシアンの顔から、僅かに血の気が引いた。 言葉が刺さった。 分かった。 分かったのに、セレスティアは止められなかった。 「私は何も知りませんでした。それは認めます。ですが、知らなかった私より、知る機会があった方のほうが、立派だったと言えるのでしょうか」 「セレスティア様」 オスカーが静かに窘める。 ノエルがいる。 分かっている。 分かっているからこそ、もう少し言いたかった。 この男の整った顔を歪ませたかった。 そんな自分が、ひどく幼稚で醜いことも分かっていた。 「失礼いたしました」 セレスティアは形式だけの謝罪を口にした。 リュシアンは何も返さなかった。 視線を逸らし、卓上の遺言状を睨んでいる。 ノエルだけが二人の顔を交互に見ていた。 「続けてもよろしいでしょうか」 オスカーが尋ねる。 「お願いします」 答えたのはノエルだった。 大人三人が、一斉に少女を見る。 「お母さまのお話なのでしょう」 「ああ」 リュシアンが頷く。 「だが、聞きたくないことまで聞く必要はない」 「聞かないと、あとでみんなが小さい声で話します」 ノエルは膝の上で指を組んだ。 「そのほうが、嫌です」 リュシアンは返す言葉を失った。 セレスティアにも、何も言えなかった。 子供は知らなくていい。 大人はよくそう言う。 しかし、知らされない子供は何も感じないわけではない。 大人が隠した言葉の隙間を、自分にとって最も悪い想像で埋めてしまう。 「では、読み上げます」 オスカーが遺言状を開いた。 「私、ミレイユ・レイモンドは、万一、自身が死亡し、かつ夫アルベルト・レイモンドが娘ノエルを養育できない状態にある場合、以下の者を娘の共同後見人として指名する」 紙を繰る音がする。 「実兄リュシアン・ヴァルクール公爵」 予想していた名だ。 リュシアンは目を閉じた。 「及び、セレスティア・エルフォード伯爵令嬢」 セレスティアの肩に、目に見えない重りが置かれた。 「共同、とは」 「親権に相当する判断を、お二人の合意によって行うという意味です」 オスカーが説明する。 「居所、教育、財産管理、医療、将来の婚姻に関する方針など。いずれか一方のみで重大な決定を下すことはできません」 「断る」 リュシアンが即座に言った。 セレスティアは彼を見た。 「何をですか」 「共同後見だ。ノエルは私が引き取る」 「私も辞退したいと考えております」 二人の声が重なった。 ノエルの指が、膝の上で強く絡んだ。 セレスティアはそれに気づいた。 リュシアンも気づいたらしく、言葉を継ごうとする。 だが、少女のほうが先だった。 「わたし、どちらのお家にも行かなくて大丈夫です」 平らな声だった。 「ノエル」 「乳母のマルタと、前のお家にいます。お父さまが帰ってきたら、困りますから」 「子供だけで暮らせるわけがない」 「マルタは大人です」 「そういう意味ではない」 「お金はあります。お母さまが、机の一番下に隠していました」 オスカーの眉が動く。 リュシアンは少女へ体を向けた。 「隠していた金のことを、誰かに話したか」 「いいえ」 「なぜ今まで言わなかった」 「言ったら取られると思ったからです」 あまりにも率直な答えだった。 リュシアンは怒ることもできず、黙り込む。 ノエルはセレスティアへ目を向けた。 「わたしは、いい子にできます」 「……ええ」 「お邪魔もしません。朝は自分で起きられます。服も一人で着られます。髪は少し難しいけれど、帽子をかぶれば分かりません」 セレスティアの胸の奥が、じわりと痛む。 「食事も、たくさんはいりません。お菓子も欲しがりません。夜に怖くなっても、起こしません」 「ノエル、もういい」 リュシアンが低く止めた。 しかし少女は止まらなかった。 「だから、どちらか一人で大丈夫です。二人だと、わたしのせいで喧嘩をするのでしょう?」 「違う」 セレスティアとリュシアンの声が、また重なった。 今度は二人とも、互いを見なかった。 「あなたのせいではない」 セレスティアはゆっくり言った。 「私と公爵閣下は、あなたが生まれる前から仲がよくありません」 「そうなの?」 「ああ」 リュシアンが答える。 「君のせいで争っているのではない」 ノエルは二人を見比べた。 「では、わたしがいなくても喧嘩をするの?」 「するでしょうね」 「するだろう」 また重なった。 ノエルの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 笑ってよい場面なのか判断しかねて、途中でやめたような表情だった。 「変なの」 「そうですね」 セレスティアは認めた。 「大人は、だいたい変です」 「君まで一緒にするな」 リュシアンが言う。 「閣下はご自分をまともだと?」 「少なくとも、葬儀の席で死者の娘に、母親が嫌いだったと告げるほどではない」 「また、そのお話をなさいますか」 「忘れると思うのか」 「では、墓石にでも刻んでおかれます?」 「君はどうして――」 「お二人とも」 オスカーの疲れた声が割り込んだ。 「故人が共同後見を望まれた理由が、少し分かった気がいたします」 「どのあたりがです」 「互いの暴走を、互いが止めることを期待されたのでしょう」 セレスティアとリュシアンは揃って黙った。 ノエルが今度こそ小さく笑った。 笑ってしまったことに気づき、すぐに口を押さえる。 その仕草だけは、年相応だった。 「遺言には、後見人指名のほかにも条件がございます」 オスカーは続けた。 「第一に、ノエル様の居所は、王都内にあるヴァルクール公爵家本邸、もしくは両後見人が合意した場所とすること」 「私の領地へ連れていくことは」 「公爵閣下の同意があれば可能です」 「同意しない」 即答だった。 「まだ何も申し上げておりませんが」 「王都から馬車で十日かかる辺境だろう。医師も教師も不足している」 「空気はよく、食料も豊かです。子供が暮らすには悪くありません」 「君は領地管理のため各地を移動する。そのたびに連れ回すのか」 「だからといって、この屋敷がよいとも限りません。閣下は日中のほとんどを王宮で過ごされるのでしょう」 「必要なら政務を減らす」 「本当に?」 セレスティアが聞き返す。 リュシアンは僅かに詰まった。 「減らす」 「今、考えて決めましたね」 「何が悪い」 「悪いとは申し上げておりません。ただ、子供一人を育てるために、これまで通りではいられないことを、今初めてお考えになったのだと思っただけです」 「君は最初から分かっていたような言い方だな」 「私は辞退するつもりでしたので」 「それを胸を張って言うな」 「張っておりません」 「二人とも、声が大きいです」 ノエルが言った。 セレスティアは口を閉じた。 リュシアンも咳払いをする。 五歳児に窘められる大人というのは、かなり格好が悪い。 「第二の条件です」 オスカーは、余計な感想を挟まず続けた。 「ノエル様が満十歳になるまで、現在の乳母マルタ・クラインを解雇しないこと。ただし、本人が退職を希望した場合、またはノエル様へ危害を加えた場合を除きます」 「乳母への信頼は厚かったのですね」 セレスティアが言う。 ノエルの表情が僅かに固くなった。 見逃さなかった。 「マルタは、どのような方ですか」 「優しいです」 答えは早かった。 「どんなふうに?」 「ご飯を作ります。服を着せます。髪を結びます」 「それは仕事ね。優しいというのは?」 「……怒鳴りません」 「叩かない?」 ノエルは一瞬だけ黙った。 「悪いことをしたら、手を叩きます」 リュシアンの顔が変わった。 「どの程度だ」 「伯父さま」 「答えなさい」 声が強すぎた。 ノエルの背筋が伸びる。 「もうしません」 「何を」 「悪いことを」 「そうではない。どの程度叩かれたのかと聞いている」 「リュシアン閣下」 セレスティアは低く呼んだ。 「その聞き方では、子供は自分が責められていると思います」 「私は乳母のことを聞いている」 「あなたにはそうでも、この子には違う」 「なら、どう聞けばいい」 本気で分からないらしい。 苛立ちはある。 だが、誤魔化して知ったふりをしないだけ、まだましだった。 セレスティアはノエルへ向き直る。 「ノエル。手を見せてもらってもいい?」 少女は少し迷ってから、両手を差し出した。 小さな手。 目立つ傷はない。 指先に薄い荒れがあり、右手の甲に古い擦り傷があった。 「痛くなるほど叩かれた?」 「少しだけ」 「赤くなった?」 「なりました」 「何をしたとき?」 「お母さまのお薬を、隠しました」 部屋の空気が変わった。 「なぜ隠したの」 「飲むと、お母さまが寝るから」 「眠るための薬だったの?」 「分かりません。でも、飲むとずっと寝ていました。起こすと怒るから、隠しました」 セレスティアはリュシアンと目を合わせた。 彼の顔も険しくなっている。 「医師の名前は?」 オスカーが尋ねた。 ノエルは首を振る。 「男の人が持ってきました。お医者さまではありません」 「どんな人だ」 リュシアンが今度は声を抑えて聞く。 「お父さまのお友達」 「名前は」 「知らない」 「顔は覚えている?」 「はい」 「あとで絵師に描かせる」 「その前に休ませるべきです」 セレスティアが口を挟む。 「今すぐ確認すべきだ」 「この子は朝から母親の葬儀に出て、先ほど自分の行き先が決まっていないと聞かされ、今は母親の薬について尋問されています」 「尋問ではない」 「閣下の顔をご覧なさい。衛兵を取り調べるときと同じ顔をなさっています」 「見たことがあるのか」 「ありません。想像です」 「君は――」 「また声が大きいです」 ノエルが言った。 二人は再び黙った。 オスカーが眉間を押さえていた。 「第三の条件がございます」 「まだあるのですか」 「はい。こちらが最も重要かと」 公証人は遺言状の最後の頁を開いた。 「故人がノエル様のために残した信託財産は、共同後見人の双方が就任を承諾した場合にのみ、その全額を解放する」 「双方が承諾しなければ?」 セレスティアが尋ねる。 「信託財産の大半は、王立孤児救済院へ寄付されます。ノエル様には法定相続分のみが残されますが、レイモンド家の財産は現在、横領事件の捜査対象として凍結されております」 「つまり」 リュシアンの声が冷える。 「私たちのどちらかが拒否すれば、ノエルは母親の残した財産を受け取れない」 「正確には、双方が拒否した場合、あるいは期限内に共同後見が成立しなかった場合です」 「期限は」 「葬儀から七日以内」 七日。 短すぎる。 ミレイユは考える時間を与えるつもりがなかったらしい。 セレスティアは腹の底から怒りが湧いてくるのを感じた。 死んでなお、自分を逃がさない。 「卑怯ね」 声に出ていた。 ノエルがこちらを見る。 セレスティアは取り繕わなかった。 「あなたのお母様は、とても卑怯な人です」 「おい」 リュシアンが低く咎める。 「事実でしょう。子供の財産を人質にして、私たちに選ばせようとしている」 「妹を悪く言うなら、席を外せ」 「都合の悪いことを死者への敬意で封じるのですか」 「子供の前だと言っている」 「子供の前だからです。この子には、自分が条件に使われた責任など一つもない。悪いのは遺言を作った大人です」 「それで君の怒りを、ノエルに聞かせる必要があるのか」 「隠して笑えば、この子は自分へ怒っていると勘違いします」 リュシアンが立ち上がった。 「何でも正直に話せばよいと思うな」 セレスティアも立つ。 「何でも隠せば守れると思わないでください」 「君は守ったことがあるのか」 言葉が、真正面から突き刺さった。 「妹が助けを求めたとき、手紙すら読まなかった君が、守るという言葉を口にするのか」 反論できなかった。 したくても、言葉が出なかった。 図星だった。 セレスティアは唇を噛み、視線を逸らす。 勝ったはずのリュシアンも、気分は晴れていないらしい。 苦いものを飲み込んだような顔をしていた。 ノエルが長椅子から降りた。 「もう、やめてください」 小さな声だった。 それでも二人には十分届いた。 「わたし、お金はいりません」 ノエルはまっすぐ立っていた。 「お母さまのお金がなくても、働きます」 「君は五歳だ」 「お皿を洗えます。床も拭けます。マルタがしているのを見ました」 「働かなくていい」 「では、どこかへ預けてください」 「ノエル」 「孤児院でもいいです」 リュシアンの顔が歪む。 怒りではない。 傷ついた顔だった。 「なぜ、そんなことを言う」 「だって、二人とも嫌なのでしょう?」 ノエルの声は震えていなかった。 だからこそ、痛かった。 「伯父さまは一人で育てたい。セレスティアさまは辞めたい。二人でするのは嫌。だったら、わたしがいなければいいでしょう?」 「違う」 リュシアンは少女の前に膝をついた。 だが、何が違うのかを続けられない。 ノエルの言葉は、今まで大人たちが口にしたことを、そのまま並べただけだった。 セレスティアも膝をついた。 少女の左右に、大人二人が並ぶ。 「あなたがいなければいい、とは誰も思っていません」 セレスティアが言う。 「でも、わたしを預かるのは嫌なのでしょう?」 「……嫌です」 リュシアンが振り向いた。 「セレスティア」 「嘘をついても、この子には分かります」 ノエルの顔から、また色が失われる。 セレスティアは続けた。 「私は、あなたを知らない。子供を育てたこともない。自分の仕事も生活もあります。それをすべて変えることが、怖いし、嫌です」 「では」 「でも、それはあなたが嫌いだからではありません」 「同じです」 「同じではないわ」 「捨てる人は、みんなそう言います」 ノエルの声が、初めて子供らしく尖った。 「わたしが悪いんじゃないって。今は無理なだけって。もう少し大きくなったらって。みんな、同じことを言うの」 セレスティアは息を呑んだ。 誰に言われたのだろう。 父親か。 親族か。 使用人か。 あるいは母親さえ、何度か口にしたのかもしれない。 「ごめんなさい」 セレスティアは言った。 「分かったようなことを言いました」 ノエルは黙っている。 「あなたの言う通りね。預かるのが嫌だと言っておいて、あなたを嫌ってはいないと言われても、信じられないでしょう」 「……はい」 「でも、今すぐ好きだとも言えません」 「セレスティア」 リュシアンの声には、抑えきれない苛立ちがあった。 それを無視する。 「だから、七日間ください」 「七日?」 「私があなたを引き受けられるか、考えます。逃げずに考えます」 自分で口にしてから、その言葉の重さを感じた。 逃げずに。 六年前にはできなかったことだ。 「七日後に、やっぱり嫌だと言うかもしれない?」 「その可能性はあります」 「そんな言い方をするな」 リュシアンが割り込む。 セレスティアは彼を睨んだ。 「では閣下は、絶対にすべてうまくできると約束なさるのですか」 「私が引き取る」 「仕事はどうするのです。子供が夜中に熱を出したら? 食事を拒んだら? 泣かずに笑っているとき、何を隠しているか分かりますか」 「学ぶ」 「私もです」 「君は辞退すると言った」 「今、考え直しています」 「なぜ」 なぜだろう。 自分でも分からない。 ノエルが可哀想だから。 ミレイユへの義理。 リュシアン一人に任せるのが不安だから。 ここで逃げれば、また一生後悔する気がしたから。 どれも本当で、どれも決定的ではない。 「あなた一人に任せるのが、非常に心配になりました」 セレスティアは答えた。 リュシアンが目を細める。 「君にだけは言われたくない」 「でしょうね。私も、あなたからは言われたくありません」 「なら、なぜ――」 「お二人とも」 ノエルが見上げている。 「七日間、喧嘩をするの?」 セレスティアとリュシアンは黙った。 オスカーが小さく咳払いをした。 「遺言上は、七日以内にお二人が合意し、署名していただければ成立いたします」 「七日間、どこで過ごすのですか」 セレスティアが尋ねる。 「ノエル様は現在、レイモンド邸へ戻ることができません。財務監査院によって封鎖されておりますので」 「なら、この屋敷だ」 リュシアンが言う。 「乳母も一緒に?」 「当然だ」 セレスティアはノエルを見る。 「あなたは、どうしたい?」 少女は驚いたように瞬きをした。 「わたし?」 「ええ。あなたが暮らす場所の話です」 「伯父さまのお家に行きます」 「本当に?」 「はい」 あまりにも早い。 「他にしたいことは?」 「ありません」 「食べたいものは?」 「ありません」 「会いたい人は?」 「いません」 まただ。 望みがないのではない。 望みを言わない。 「では、私からお願いがあります」 「何ですか」 「先ほどの蜂蜜菓子を、一緒に食べませんか」 ノエルは目を見開いた。 「でも、お葬式の日です」 「亡くなった人がいる日に、お菓子を食べてはいけないという決まりはありません」 「笑ってもいいの?」 「笑いたくなったなら」 「悲しくないと思われませんか」 「誰に?」 「みんなに」 セレスティアは少し考えた。 「思わせておけばいいのではないかしら」 リュシアンが呆れたような顔をする。 「五歳の子供に何を教えている」 「閣下は、人目を気にして空腹を我慢するよう教えるのですか」 「そうではない」 「では、蜂蜜菓子を用意してください」 「なぜ私が」 「ここは閣下のお屋敷でしょう」 「使用人に頼めばいい」 「その使用人へ命じるのが、主人の役目です」 リュシアンは何か言い返そうとして、やめた。 呼び鈴を鳴らし、入ってきた侍女へ蜂蜜菓子と温かい飲み物を頼む。 「牛乳がいいです」 ノエルが小さく付け加えた。 初めて、自分から口にした希望だった。 リュシアンはすぐに侍女へ向き直る。 「牛乳を。熱すぎないものだ」 「少しだけ蜂蜜を入れて」 ノエルがまた言う。 「蜂蜜もだ」 「二杯」 リュシアンが止まった。 「二杯?」 「セレスティアさまも飲むから」 今度はセレスティアが驚く番だった。 「私は紅茶で」 「一緒にって言いました」 ノエルは真面目な顔をしている。 「同じものを食べるだけでは駄目?」 「同じにしてください」 断れば、また希望を引っ込めてしまう気がした。 「では、私も蜂蜜入りの牛乳を」 侍女は表情を変えずに一礼した。 だが、退室する間際、ほんの僅かに口元が緩んだように見えた。 公爵家の客間で、伯爵令嬢と幼女が牛乳を飲む。 場違いだ。 だから、少しだけ息がしやすかった。 「それでは」 オスカーが書類をまとめる。 「正式なご返答は七日後までお待ちいたします。本日は遺言状の写しを、お二人へ一部ずつお渡しします」 セレスティアは差し出された紙を受け取った。 最後の頁の下部には、ミレイユの署名があった。 見慣れた字。 昔より少し細く、右上がりの癖が弱くなっている。 その下に、追伸のような文章が添えられていた。 『二人とも、自分のほうが正しいと思っているでしょう。 そこが、よく似ています。 だからきっと、互いが嫌いでしょうね』 セレスティアは奥歯を噛んだ。 死者に見透かされていたことが、たまらなく腹立たしい。 「何と書いてある」 リュシアンが覗き込もうとする。 セレスティアは紙を伏せた。 「閣下の写しにも同じものがあるでしょう」 「見せろ」 「嫌です」 「子供か」 「今、その言葉を閣下からだけは言われたくありません」 ノエルが二人を見ている。 そして、不安そうにではなく、少しだけ興味深そうに首を傾げた。 「お母さまの言った通りです」 「何が?」 セレスティアが尋ねる。 「二人を同じ部屋に入れたら、すぐ喧嘩をするって」 リュシアンが遺言状へ視線を落とす。 「妹は、そこまで予想していたのか」 「他には何と?」 ノエルは少し考えた。 「伯父さまは怒ると、もっと眉間の皺が深くなるって」 リュシアンが無言で眉間を押さえる。 「それから?」 「セレスティアさまは、怒ると丁寧になるって」 セレスティアも黙った。 その通りだった。 「お母さま、二人のことをよく知っていたのね」 ノエルはそう言って、初めて寂しそうな顔をした。 「わたしより、ずっと」 先ほどまで僅かに和らいでいた空気が、静かに沈む。 セレスティアは返す言葉を探した。 大丈夫。 お母様はあなたを愛していた。 また、正しそうな言葉が頭に浮かぶ。 けれど言わなかった。 愛していても、子供を寂しくさせる親はいる。 愛だけですべてを説明しようとすれば、寂しかった子供の気持ちが置き去りになる。 「そうかもしれないわね」 セレスティアは言った。 「お母様には、あなたが知らない過去がたくさんあったのでしょう」 「わたしは、お母さまを知らないの?」 「全部は知らない。たぶん、私も、公爵閣下も」 「娘なのに?」 「娘でも、親のすべては分からないわ」 「では、誰が一番知っているの?」 誰も答えられなかった。 ミレイユ本人でさえ、自分のことを分かっていたかどうか怪しい。 ほどなく、蜂蜜菓子と牛乳が運ばれてきた。 ノエルは最初、皿に手を伸ばさなかった。 セレスティアが一つ取り、口へ運ぶ。 甘い。 葬儀の日には似合わないほど甘かった。 「おいしいです」 そう言うと、ノエルも恐る恐る菓子を取った。 一口だけ齧る。 次に、もう一口。 やがて夢中になりかけ、はっとしたように手を止める。 「もう一つ食べていいですか」 「もちろん」 「二つ食べても?」 「ええ」 「三つは?」 「夕食が入るなら」 ノエルは真剣に悩んだ。 「二つにします」 「賢明です」 セレスティアが答える。 その横で、リュシアンは一人だけ紅茶を飲んでいた。 ノエルが彼を見る。 「伯父さまは牛乳を飲まないの?」 「私はいい」 「嫌い?」 「そうではない」 「なら、同じにして」 リュシアンが侍女を見る。 侍女はすでに笑いを堪える顔をしていた。 「……私にも牛乳を」 「蜂蜜も入れて」 「蜂蜜もだ」 公爵の顔は、葬儀のときより険しかった。 けれどノエルは、今度こそ少し笑った。 セレスティアも、ほんの僅かに口元を緩めた。 これで家族になれるとは思わない。 七日後に、すべてを断るかもしれない。 この子を好きになれないかもしれない。 リュシアンとは明日にも決裂するだろう。 何一つ決まっていない。 ただ、その日。 母親の葬儀を終えた五歳の少女は、蜂蜜菓子を二つ食べた。 温かな牛乳を飲み、ほんの少し笑った。 セレスティアは、それだけは忘れないでおこうと思った。 同じ頃。 王都の裏通りにある宿屋で、一人の男が朝刊を握り潰していた。 紙面には、ミレイユ・レイモンドの訃報が載っている。 男は乱れた金髪を掻き上げ、震える声で呟いた。 「遺言状なんて、聞いていないぞ……」 アルベルト・レイモンドは、生きていた。白い紙は、机の端に置かれたままだった。 何も書かれていない。 ただの白い紙。 けれど、ノエルはそれを「嘘の白ではありません」と言った。 まだ書かない白。 空いている白。 思い出話のための、まだ開けていない場所。 セレスティアは、その紙を時々見てしまう。 アデライードも同じだった。 母は部屋の入口近くに立ったまま、少しだけ唇を結んでいる。 いつもの優雅な微笑みはない。 失敗した大人の顔をしていた。 それが、少し意外だった。 母はいつも整っている。 失言さえも、三呼吸後には上品に畳んでしまう人だ。 けれど今は、畳まない。 自分が急いだことを、急いだまま認めている。「ノエル嬢」 アデライードは静かに言った。「先ほどのことを、改めて謝ります」 ノエルは布兎を抱えたまま、少し肩を固くした。「謝られると、返事を考えます」「そうですね。では、返事はいりません」「返事がいらない謝罪ですか」「はい。私が私の急ぎすぎを認めるための謝罪です。あなたに、すぐ許していただくためではありません」 ノエルは少し考えた。「謝罪文は、読まなくても謝罪文です」「ええ」「謝罪の言葉も、返事しなくても謝罪ですか」「そうです」「では、置きます」「はい」 アデライードは小さく頷いた。「置いてください」 部屋には、午後の光が入っていた。 庭側の窓から入る光はやわらかく、机の上の紙
ノエルのために用意された部屋は、静かだった。 静かすぎて寂しいのではなく、余計なものが置かれていない静けさだった。 淡い色のカーテン。 低い寝台。 窓辺の椅子。 小さな机。 机の上の紙とペン。 黄色い花。 犬のパン殿の水皿。 それから、犬のパン殿本人。 犬のパン殿は、到着してすぐ水を飲み、札を少し濡らしかけ、ノエルに直され、そのあと敷物の上で丸くなった。 旅慣れていないはずなのに、誰よりも早く休む場所を決めている。 ノエルは、それを少し羨ましそうに見ていた。 「犬のパン殿は、すぐ休めます」 「そうですね」 セレスティアは答えた。 「知らない部屋なのに」 「水皿があったからかもしれません」 「水皿があると、休めますか」 「犬のパン殿には、そうなのかもしれません」 「わたしの水皿は何ですか」 ノエルは、真剣に聞いた。 セレスティアは少し考えた。 「布兎かしら」 「布兎」 「それから、旅の紙入れ」 「はい」 「黄色いリボンも」 ノエルは、自分の髪の黄色いリボンに触れた。 低い位置で結ばれている旅の紐。 馬車の中で何度か揺れ、少し曲がったが、ほどけてはいない。 「水皿が多いです」 「多いほうが安心する時もあります」 「多すぎると、戻る馬車が重くなります」 「水皿は比喩ですから」 「比喩は、少し難しいです」 扉の近くに立っていたリュシアンが、低く言った。 「私も苦手だ」 ノエルはすぐ彼を見た。 「伯父さまは、練習中です」 「
エルフォード領の道は、セレスティアの記憶より少し狭く見えた。 いや、道が狭くなったのではない。 自分が大人になったのだ。 子供の頃は、この並木道が果てしなく長く見えた。 馬車の窓から身を乗り出しそうになって、母に「淑女は枝と競走しません」と叱られたことがある。 それでも、セレスティアは馬車の中でこっそり並木の数を数えた。 一つ、二つ、三つ。 あの頃の自分は、帰ってきたことを数で確かめていた。 今、隣にはノエルがいる。 膝の上に布兎。 髪には黄色いリボン。 手元には旅の紙入れ。 足元には犬のパン殿。 そして向かいにはリュシアンが座っている。 彼は窓の外を見ていた。 確認したそうな顔をしている。 馬車の周囲、護衛の距離、道幅、門の位置、屋敷の玄関、たぶん全部見ている。 けれど、口には出さない。 ノエルに「地図は少し多いです」と言われたことが、効いているらしい。 ノエルもそれに気づいていた。「伯父さま」「何だ」「今、いっぱい見ています」「少しだ」「いっぱいの少しです」「……そうか」「でも、言っていません」「言わない」「十割です」「助かる」 リュシアンは短く返した。 その顔は相変わらず怖い。 だが、少しだけ不器用に我慢している顔でもある。 セレスティアは、その横顔を見てから窓の外へ目を戻した。 屋敷が見えてきた。 白
公爵邸が見えなくなってから、ノエルはしばらく黙っていた。 馬車の窓には、見慣れた王都の石壁が流れていく。 朝の市場へ向かう荷車。 パン屋の煙突から上がる薄い煙。 まだ眠そうな顔の青年が水桶を運び、店先の老婆が敷布を叩いている。 どれも、ノエルが何度か見たことのある景色だった。 けれど、今日のそれは少し違う。 ただ外へ出るのではない。 帰るために出ている。 馬車は、戻る馬車でもある。 それでも、進む向きは前だった。 ノエルは旅の紙入れに触れた。 生成りの封筒。 青い紐。 中には三枚。『帰る場所は、選んで増えていい』『うまくできなければ、帰っていい』『戻る馬車は、正式です』 昨日の夜、箱の前で選んだ紙。 箱は留守番。 黄色い花と一緒に、公爵邸で待っている。「まだ、ありますか」 ノエルが小さく聞いた。 セレスティアは、ノエルが何を指しているのかすぐ分からなかった。「紙?」「いいえ」「箱?」「いいえ」「公爵邸?」 ノエルは頷いた。「あります」 セレスティアは答えた。「見えません」「見えませんね」「角を曲がったからです」「はい」「見えなくなったら、少し変です」「胸のどこかが?」「はい。公爵邸が消えたみたいです」 リュシアンが低く言った。
出発の朝、ノエルはいつもより早く目を覚ました。 まだ空は白み始めたばかりで、窓の外の庭も薄い灰色をしている。 鳥の声も少ない。 屋敷全体が眠っているようで、それでいて、どこか起きている。 旅の日の朝は、変な静けさがある。 ノエルは寝台の上でしばらく動かなかった。 布兎を胸に抱き、目だけを動かして部屋を見る。 机の上。 小さな鞄。 その横に置かれた旅の紙入れ。 布兎の青いリボン。 昨日、小さな布袋に入れた黄色いリボン。 箱は部屋の端にある。 青い紐で閉じられ、横には黄色い花が一輪置かれている。 箱は留守番。 三枚の紙は旅。 何度も確認した。 それでも、朝になると少し違って見えた。 夜に決めたことは、朝になると本当にできるのか試される。 ノエルは布兎を抱えたまま、箱へ近づいた。 床に膝をつき、箱の横の黄色い花を見る。 花はまだ元気だった。 少しだけ首を傾げているが、しおれてはいない。「おはようございます」 ノエルは小さく言った。 箱は答えない。 当然だ。 けれど、その答えない感じが、今日は少し安心でもあった。 箱が急かさない。 箱が泣かない。 箱が「置いていくのですか」と言わない。 ただ、そこにある。「行ってきますは、まだ早いです」 ノエルは言った。「朝ごはんのあとです」 それから、布袋を手に取った。 中から黄色い
出発の朝ではない。 まだ、出発前日の夜でもない。 ただ、翌朝が来れば旅になる、という妙な時間だった。 屋敷の中は、どこか落ち着かない。 廊下の足音がいつもより少し早い。 侍女たちは声を低くしているが、その低さ自体が忙しさを隠せていない。 家令は平然としている。 平然としているが、手にしている帳面の角度が、いつもより少し鋭い。 御者トマは馬の様子を見に行き、庭師はなぜか玄関まわりの枝を整えている。 犬のパンは、何も分かっていない顔で屋敷中を歩き回り、そのたびに誰かから、「犬のパン殿、そちらは厨房ではありません」 と呼ばれている。 犬のパン殿。 この呼び名は、思った以上に屋敷へ広がってしまった。 セレスティアは、廊下の向こうから聞こえた「犬のパン殿が敷物をくわえて逃走中です」という侍女の声に、思わず目を閉じた。 明日、エルフォード領へ向かう。 戻る馬車つき一泊。 その言葉だけ聞けば、慎重で安心な旅のはずなのに、実際の屋敷は小さな遠征前のようになっていた。 そして、その中心にいるはずのノエルは、静かだった。 静かすぎた。 小卓の前に座り、箱を前にしている。 箱は、いつもの布袋から出されていた。 青い紐。 角の少し丸い木箱。 ノエルの紙がたくさん入っている箱。 昨日は「箱は留守番です」と小卓に書いた。 その紙はまだ小卓にある。 だが、今朝のノエルの顔を見る限り、その言葉はまだ完全には乾いていなかった。 セレスティアは、小卓の向かいに座った。「おはよう、ノエル」